歴史小説「黎明の坂」第一巻/立ち読み|増田祐美ウェブサイト

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黎明の坂(一)序・抜粋

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黎明の坂(一)

黎明の坂(一) 目次

    序 ――――――――――――――― 5
    八重山吹 ―――――――――――― 7
    骨肉相食 ―――――――――――― 82
    信西入道 ―――――――――――― 135
    平治合戦 ―――――――――――― 185
    義平 ―――――――――――――― 295
    天女降臨 ―――――――――――― 370



   『序』

 漆黒の空が(ほの)かに青みを帯びはじめた。
 振り返れば奥州平泉の北の入り口関山(かんざん)、その頂に建立された中尊寺から、朝の勤行(ごんぎょう)を告げる後夜(ごや)の鐘の()が山肌を伝って響いて来る。
「ゆきますか」
 栗毛の馬に(またが)った若者に問われたもうひとりの若者は、
「おう、負けぬぞ」
 言いざま、おのが跨る黒毛の腹を蹴った。栗毛も慌ててあとを追う。
 靄(もや)が左右に流れ、露に濡れた若草が匂い立つ。
 ふたりとも見事な御しぶりだ。
 半刻足らず野を駆けまわったのち、ふたりは馬を前後に並べて小高い丘へ上がった。政庁が置かれる平泉館(ひらいずみのたち)と関山の中間に位置し、周囲をぐるりと見渡せる物見に最適のここは、高楯(たかだて)、とよばれている。
 ふたりは守兵に馬を預け、(やぐら)に登った。
 見上げる空の青は、すでにりんどうの花色ほどに薄くなり、東雲(しののめ)洗朱(あらいしゅ)から山吹色に変わりつつあった。
 その空の匂いを写して野の果ての北上川はゆるやかに流れ、対岸の束稲山(たばしねやま)は裾を川に沿わせたたおやかな山容を黒い影にして浮かび上がらせている。
「夜明けは見飽きるということがないのだな」
「九郎殿は毎朝のようにそう仰せですね」
「そうか。だが三郎も朝駆けすれば必ず、高楯へゆこう、と言うではないか。この景色が見たいのだろう」
「それは……そうですね」
 ははは、とふたりは声を合わせて笑った。
 三郎は奥州藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三男忠衡(ただひら)、齢は十五である。
 今年十七になる九郎は、つい二年前まで牛若(うしわか)と名乗っていた義經(よしつね)河内源氏(かわちげんじ)嫡流源義朝(みなもとのよしとも)を父に持つ。
 そして母は天下第一の美女と(うた)われた常磐(ときわ)。その咲き(こぼ)れる花のような(ひと)を義朝が見初(みそ)めたのは、二十数年前の春の盛りであった。


◆◆ 以下、各章より抜粋 ◆◆(小説「黎明の坂(一)」)

   『八重山吹』より

     一

 篠青(しのあお)狩衣(かりぎぬ)に身を包み、その人は現れた。
 立て烏帽子を着け、長覆輪(ながふくりん)の太刀を()いている。
 そのうしろには胡籙(やなぐい)を背負い、節巻(ふしまき)の弓を持って控えたる郎党が数人。
「本日より当御所警固の指揮を執る兵部少輔(ひょうぶのしょう)源義朝である」
 太く、爽やかに、よく響く声である。
 随身所(ずいじんじょ)の壁を背にして並んでいた舎人(とねり)たちがいっせいに威儀を正した。皆二十歳過ぎの、血気溢れる若者だ。
 今日から彼らの上官となる義朝は、武勇の誉れ高い八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の血を引く河内源氏の長男、憧れの人を間近に見る目は、どれも緊張と興奮に輝いている。
「選ばれし(なんじ)らの手並み、のちほどとくと見せてもらうぞ」
 義朝は眼光鋭く若者たちを見まわしたのち、にこっ、と端正な顔を(ほころ)ばせた。誰もがその笑顔に引き込まれ、頰をゆるめずにはいられない。
 近衛殿(このえどの)、あるいは近衛(だい)ともよばれるこの屋敷は関白藤原忠通(ただみち)のもので、左京の一条三坊十町にある。
 本来は忠通の養女で当今(とうぎん)(今上帝)近衞帝の中宮呈子(しめこ)の御所なのだが、今は当今の御座所(ござしょ)でもある。内裏は長らく修造されずにあって荒廃しているため、当今は四条東洞院殿(しじょうひがしのとういんどの)里内裏(さとだいり)としていたが、昨夏に火災に見舞われて焼亡、その秋からここで中宮と同宿しているのだ。
「やあ、来たか」
 親しく声をかけたのは蔵人仲經(なかつね)、義朝の正室由良(ゆら)の従兄だ。
「さ、早く。中宮はすでにお待ちだぞ」
「うむ。あ、いや少し待ってくれ。装束を調えたほうがよかろう?」
「おお、そうしたほうがよい。いろいろと連中はうるさいからな」
 仲經はめくわせしてうなずいた。
 義朝は随身所ですばやく着替えを済ませた。緋色の(ほう)無紋紫(むもんむらさき)指貫(さしぬき)、冠を着け、手には扇。
「ほう、見目よい男は何を着ても似合うな」
 仲經の口ぶりに嫌味はない。いつもの清々しさに加え、優美な趣を(まと)った義従弟を感心して眺めている。
 義朝は袖を広げておのが姿をしげしげと見た。
「まったく肩の凝る衣よ。これでも昔と比べて装いが楽になったというのだろう? これを家から着つけて来ねばならぬ者は気の毒よな。そもそも院御所はすでに狩衣での出仕が許されておるというに、何ゆえ帝の御所は衣冠(いかん)でなければならぬのだ」
「まあそう文句を言うな。中宮に挨拶申し上げる間の辛抱だ」
 仲經は笑いながら歩き出した。あとに義朝とその乳母子(めのとご)鎌田政淸(かまたまさきよ)がつづく。三人は庭伝いに奥へと進んだ。
 あちらこちら、多くの下人たちが足早に動きまわっている。
「忙しそうだが、何かあるのか」
「今宵、中宮が管弦の(うたげ)を催されることになっている。夜もすがらになるだろうな。それより御辺(ごへん)、兵部省の仕事もあるのに、ここの警固までやるのは大変ではないのか」
「何の、中宮を通して主上にお仕えすることになるのだ。大変など言うてはいられまい。それに、いざとなれば代官を務めてくれる頼もしい者がおる」
 義朝は乳母子を振り返って笑った。
 うららな春の光が庭一面に当たり、きれいに敷き詰められた白砂が照り渡っている。池の手前に植えられた、雪を置いたかと見紛(みまご)うばかりの今まさに満開の桜に、義朝と政淸は思わず足を止めた。
「見事であろう? 何でも、わざわざ吉野から運ばせたのだそうだ」
 身も庭へ出るたびに見惚(みと)れるわ、と仲經も頰をゆるめたが、すぐに真顔に戻し、「では御辺らはこちらで」と、義朝たちを庭に残して南階を上がっていった。
 義朝は(きざはし)近くに、政淸は少し下がって蹲踞(そんきょ)した。
 貴人との会話は、身分が違えば同じ室内にあっても人を介してなされることが多い。まして義朝は今日が初の参内(さんだい)、まだ殿上(でんじょう)に昇ることも許されてはいなかった。
 やがて、(ひさし)の間の入り口に座した仲經が何か言うのが聞こえた。見れば、いつの間にやら女官がひとり、奥に控えている。遠目で、しかも明るい庭からではその顔はよく見えないが、着ている衣の色や佇まいからして年若いということはわかる。
 仲經が義朝の到着を告げたのであろう、女官は立って背を向けた。
(どのようなお言葉がいただけるのか)
 無論、階の下にいる義朝に中宮から直接声がかかるなどあり得ない。奥の間の、さらに御簾(みす)の内にいる貴なる女(ひと)の言は、女官の口を以て仲經に伝えられ、それがおのれに伝えられることになる筈だ。
 ややあって、女官がこちらへ引き返して来るのを認めて、義朝は目を伏せた。高位ではないにしても、宮の(かたわ)ら近くに仕える女を露骨に見るのは失礼だと思った。
 女官の座る気配がする。と、
「兵部少輔殿に、中宮のお言葉を申し上げます」
 何と、女官が(じか)に話し出したではないか。義朝は驚き、平伏した。
「―――兵部少輔源朝臣義朝に近衛殿警固を申しつける」
 その声の何とまろく、何と明るいこと……。
 義朝はうっとりとなった。玉を転がすような、とはこうした声をいうのであろう、発する音ひとつひとつが光沢ある膜で覆われているようでありながら柔らかく、芳気さえ感じられる。
「本日よりの勤め、しかと果たされんことを望む。汝が武勇はさまざま聞き及んでおるゆえ、まことに心強く思う―――」
 女官の声が耳に(はず)む。しかも階上から、ほんのりと甘い香が漂ってくる。
「―――昇殿を許す」
 いつの間にか、義朝は顔を上げてしまっていた。薄花桜色(うすはなざくらいろ)の衣に身を包んだ、気品ある匂うばかりの美貌がそこにあった。中宮のお言葉が語られている間は平伏していなければならぬことなど、すっかり忘れている。お言葉の内容もうわの空だ。
 じっと目を離さない義朝を黒々とした瞳で見返していた女官は、わずかに首を(かし)げたかと思うと、次の瞬間、どうしたことかにっこりとした。あまりに見詰められて戸惑い、無意識に微笑(ほほえ)んでしまったのであろう。だが、ああ、この愛らしさは―――義朝は呼吸を忘れた。
「以上でございます」
 女官は急に取り澄ました顔に戻った。我に返った義朝は、慌てて額が白砂に着くばかりに頭を下げた。
「こたびは御所警固を任命いただきましたこと、まことにありがたく存じます。我が一門の名誉に懸けて、任務を遂行いたす所存にございます」
 覚えず声が震え、ますます身を低くした。
 女官が下がったようだ。
 瞼(まぶた)の裏に佳人の笑顔がよみがえる。
(天は、何と麗しきものをこの世に在らしめたものか……)
「ゆくぞ」
 突然、真横で仲經の声がして、義朝は飛び上がった。彼はいつの間に階を下りたのであろう、急いで廂の間を見たが、もう女官の姿はなかった。
「さっそく宴にお誘いいただけるとは、気に入られたものだな」
 先ほど来た道を逆に辿(たど)りながら仲經が我がことのように嬉しそうに言うのに、何のことだ、と義朝はぼうっとしたまま聞き返した。
「まさか、聞き漏らしたのではあるまいな」
 仲經は目をまるくして、大げさに驚いて見せる。
「今宵の管弦の宴に、中宮が昇殿をお許しになったではないか」
「あ、ああ、そうであったな」
義朝は曖昧に返事をし、へへっ、と笑った。
「中宮の御主催で主上のお出ましはないとはいえ、昇殿を許されるのは大変なことなのだぞ……ではのちほど。忘れるなよ」
 随身所まで戻って仲經が離れてゆくや、乳母子政淸が詰め寄った。
「殿。斯様な大事をお聞きになっていられぬとは、如何なることにございますか! 殿らしゅうもない」
「いや、済まぬ。少し考えごとをしておった」
「何ですと?」
「まあ、そう怒るな。こういう時のためにこそ、そなたには常にそばにいてもらっておるのではないか。ははは」
「笑いごとではありませぬぞ、まったく。王家に近づくにあらゆる機を逃してはならぬ、と仰せになったは殿ですぞ。御所警固は手段に過ぎぬことを忘れるな、と」
「そうであった。済まぬ」
 義朝は真顔で謝って、だが、と首を傾げた。
「今日が初日ぞ。なぜ中宮は宴にお誘いくださったのであろう? しかも直々(じきじき)にはあらぬが、仲經殿を介さずお言葉をくだされた」
政淸はゆっくりと肩を(そび)やかした。
霊験灼然(れいげんいやちこ)ですな」
「何だと」
「王家に近づくにあらゆる機を逃してはならぬ―――そのためには、あらゆる手を打っておかねばなりませぬ。今日のこの日に先立って、(しか)るべき方々にそれなりのものを(つか)ませてあります」
 くわっ、と義朝は顔を(しか)めた。
「もう効いたというのか」
「でしょうな」
「さすがは政淸」
「いえ、当たり前のことをしたまで」
 政淸はいたって涼しい表情だ。義朝は嬉しくなった。
(よい乳母子が支えてくれるというに、我がふらついてどうする)
 たかがひとりの女官ではないか、と義朝はおのれに言い聞かせた。
「よし、仕事だ。まずは舎人の(おさ)をよべ。有事の時、前任者は如何なる戦術でゆく手筈であったのか確かめてやろう」
 さっそく、舎人たちにはさまざまな課題が与えられた。矢衾(やぶすま)の立て方から伝令の送り方まで、その甘いところに義朝は容赦なく怒号を飛ばしたが、上手くやれれば思いきり褒()めてやった。
これがゆるい訓練に慣れきっていた若者たちには新鮮でよかったらしい。しかも頑張れば極上の笑顔を向けてもらえる。
(こ奴ら、これほど出来がよかったか?)
 と、舎人の長も驚くほどに若者たちは呑み込みよく機敏に対応して、上官を大いに満足させた。
 訓練は初日ということもあって早くに終わったが、
―――信頼と憧憬を得た上官は、部下を存分に活かし使える。
 そんなわかりきったことを、舎人の長は勿論、舎人たち自身も再認識する半日となった。



   『骨肉相食』より

 月が中天を少し過ぎた。
 すでに義平隊はじめ各部隊は影を拾って移動し、大蔵館へ三、四十間のところに迫っていた。
 煌煌(こうこう)と照る月の光を受けて、土塁を積み上げた台地に(たたず)む屋敷が、蔀戸(しとみど)のひとつひとつまでもがはっきりと見えるほどに、その姿を浮かび上がらせている。
 月見の宴は果てたようだ。先ほどまで義平たちのところへ押し寄せていた、人々が歌い笑うさんざめきはもう聞こえない。
 館の明かりが徐徐に消え、物見櫓(ものみやぐら)松明が小さく揺れるばかりになった頃、南側に待機していた横山党が喚声を上げて攻めかかった。
―――真昼の如く斯様に明るい夜に、誰が攻め入ろう。
 大蔵館の守兵の誰もがそう思っていた。さらに、相模国の義平の館でも毎年、中秋には月見の宴が催されることを誰彼となく知っていたことが油断に繋がった。娯楽とてそうない時代である。義平も今宵は攻めては来ぬ―――この夜、館にいる男たちはひとり残らず酒を口にし、歌に踊りに酔いしれ、余韻を楽しみながら館全体が眠りにつこうとしていた。
 そこへ敵兵が降って湧き、館内は混乱した。
 守兵は慌てて矢衾を立てようとしたが、酒のせいで踏ん張りが効かず、的は定まらない。対して義平方の前衛は戎装(じゅうそう)しているうえ、十三(づか)の矢を引く弓の名手揃いである。次々に射抜かれた守兵は地に叩きつけられて折り重なり、その(おめ)き叫ぶ声は広大な館を貫いた。
「敵は何奴だ」
 南の庭先に飛び出して来た重隆が怒鳴った。
「鎌倉の源太義平殿か」
「いえ」
 片膝突いて答える郎党の顔は引き()っている。
「それが横山殿の旗印にて……」
「何、横山が」
 横山党はぎりぎりになって動いた。いや、ぎりぎりまで動かなかった。
 源氏や秩父氏と同じように、武蔵各地の武士団はそれぞれ勢力拡大を狙っている。横山党は秩父重隆の背後にいる児玉党を見ていた。主に武蔵国南部から相模国北部にかけて勢を拡げる横山党に対して、児玉党は武蔵国北部から上野国南部にかけて勢を扶植(ふしょく)し、横山党に引けを取らぬほどに成長してきている。
 横山党にとって、今回の義賢・重隆と義平・重能の対立は、児玉党を牽制するのに絶好の機会、直前まで動かなかったのは、敵方を油断させる以外の何ものでもなかった。
(しまった)
 重隆は地団駄を踏んだが、遅かった。横山党が単独でことを起こす筈がない。つまり、すでに義平・三浦・猪俣らも動いているということではないか。



   『信西入道』より

 信賴(のぶより)如きが近衛大将とは、と驚き、ぴしゃりと遮った信西に、後白河院はしつこく食い下がった。
「信賴は近衛中将も検非違使別当もよう勤めたではないか。次こそは大将の地位を与えてやってもよいのではないか」
「近衛大将という職は、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)を務める者でもめったになれるものではございませぬ。執柄(しっぺい)(摂政・関白)の御子息にとっても究極の官職にございます。何より信賴殿の家柄では大将にはなれぬこと、院にはよくおわかりの筈」
 ゆっくり嚙んで含めるように話す信西に、後白河院は面倒臭そうな視線を向けた。
「過去には重代清華(せいが)の家にあらずとも、場合によっては大将に任じられた者もあるというではないか。(こだわ)らずともよい。近衛大将の役、武に()けた信賴に最適であろう」
「そのような役に信賴殿をお就けになれば、(おご)り高ぶって謀逆の臣にもなりかねませぬぞ。まさか信賴殿が望まれたのではありますまいな」
「それはない。あれは汝に劣らぬ忠実な男よ。それによう気も利く。そうそう、先頃もこのようなことがあったわ……」
 信西は暢気にしゃべる主の顔を、空しい思いで見詰めた。
 今まで信賴の能力を高く評価して、その昇任を認めてきた。おのれ自身、官位は四位ながら、子供たちを大国受領や弁官に任じている。しかし大将や大臣となると話は別だ。この職に就ける家柄は明確に定められており、例外はまず認められない。信賴の近衛大将昇任を許せば、許したこの信西が朝廷内の多くを敵にまわすことになる。さらに敵意は、信賴の昇任を要求した後白河院にも向けられるのだ。その敵意を纏めるのは、言わずもがな、強い武力を背後に持つ者になろう。それが当の信賴でないと誰が断言出来よう。
(院にはあの男の怖さがおわかりではない)
 近衛大将になりたや、などと間違っても口にしない男だからこそ、危ないのだ。
 任じなされたは院、許したは信西。そして、叡慮に(そむ)けず、心ならずも大将を拝任せざるを得なかった我こそは最大の被害者である―――あの(さか)しい男はそう訴えて、人事の慣習を破られたくないという些事に憤る男たちの不満をうまくおのが追い風に変えるであろう。そう、信賴ほどの者が、朝廷の新しき主導者になれる機会をみすみす逃すとは考えられない。
 そういえば信賴はここしばらく出仕していなかった。
 気鬱のため、環境を変えての静養が必要とかで、伏見にある源中納言師仲(もろなか)の別荘へいったきりだ。伝え聞くところでは、信賴は気晴らしと称して、毎日欠かすことなく馬を駆り弓を引いているらしい。
(まこと、気鬱か)
 時折、東国(なまり)のあるだみ声も聞こえるという。もしや武芸を磨いているのではないか。奴は一体、何を企んでいる―――。
「……それにしても汝、なぜ信賴の昇任をそう渋るのだ。おおそうか、わかったぞ、()いておるのであろう。この頃めっきり、夜に汝をよぶことがなくなったからな」
「いや、それは……」
「まあ、そう悪く思うな。汝ももう五十四。年は年なりの味があろうが、やはり若い肌には勝てぬというものだ。あははは」
(このうつけが!)
 思わず怒鳴(どな)りそうになった信西は、うつむいて、がりっ、と奥歯を嚙み締めた。
もとより政治力も教養もないのは承知している。だが自身の身の危険にまで鈍感でいられては堪らない。乳母夫としてのこの身まで危うくなるではないか。
いや待て、後白河院がこの信西を亡き者にしようと考えているのかもしれぬ。理由は何でもよい。とにかく信西が信賴を否定したという既成事実を作って、信賴にこの身の排斥をけしかけるのだ。あるいはすでに信頼も同意のうえのことか。
 しかし院と結んでこの身のみを討つというのなら、そう難しい話ではない。今、人払いしたこの御座所でひと突きすれば済むことだ。なのになぜ信賴は、伏見に出向いてまで武芸に汗を流しているのか。なぜ東国の、恐らく義朝の麾下であろう武士もいるのだ―――。
 何かとてつもないことが起きる、と信西は直感した。それが何かはまだわからないが、その中心におのれがいるであろうことだけは、なぜかはっきりとしていた。どうすればよい? 今から何が出来る……。



   『平治合戦』より

「残念ながら今や六波羅が御所である。まったく見事にやられたものよ。すでに六波羅には関白はじめ、左右大臣以下公卿公家、京武者まで数多(あまた)馳せ参っているという。朝敵になりたくなくば六波羅へ参れ、と()れを出したらしい」
「父上はどうなさるおつもりですか」
 義平が問うた。
「無論、打って出る。だが御辺らには無理強いせぬ。源氏の(なら)いは二心(ふたごころ)なきとするが、朝敵と見なされた以上は固執(こしつ)することはない。国に帰るも平氏につくも、そなたらの好きにするがよい」
 棟梁と仰ぐ義朝の思わぬ言葉に、将たちは耳を疑った。
「何を仰せられます」
「矢尽き、太刀折れるまで共に戦いますぞ」
「もとより六条河原に(しかばね)(さら)す覚悟!」
 居並ぶ将が一斉に口を開き、どよめいた。
 彼らは義朝の麾下(きか)に入った経緯はどうあれ、源氏の嫡流の名に恥じぬ義朝の、東国に勢を拡げてゆく武勇に敬意を払った。また、熱田大宮藤原季範や常磐など、王家に繋がる的確かつ強力な人脈を作り、上洛後八年で父爲義の官職を越えるという政治手腕に感嘆した。その義朝が、保元の乱以降に(こうむ)っている不遇は、東国の将にとって我がことのように辛く感ぜられていたのだ。
「さすがは我が見込んだ武将らだ。しかし無理はするな」
 義朝は満足そうに微笑み、将ひとりひとりの顔をじっくり見まわした。
 と、その時それまで黙っていた鎌田政家が、底鳴りする声で言った。
「殿も御無理なさいませぬよう。我らは、殿の新しき国創りの夢に懸けているのでございますぞ!」
 続いて政家に負けぬ、響きある声がよどみなく響いた。
「まさしく。殿の夢は我らの夢にございます。我らとていつまでも都のへなへな公家らの走狗(そうく)として、無駄に戦わされるのは御免蒙りたい。平氏は武門の家柄とはいえ淸盛殿以下いくさを知らず、まことの武士とは言えませぬ。堕落(だらく)した朝廷に()らぬ武士の世は、弓矢取る身の辛さを知る殿でなければお開きになれませぬ。殿のお命、何としてもお護り申し上げますぞ」
 声の主は、普段は無口で口下手な熊谷次郎直實(くまがいじろうなおざね)であった。
「ほう、直實があっぱれな物言いよ。その心ばえあらば、たとえ義朝なくともいずれ我らが目指す世となろうぞ」
 義朝は呵呵(かか)と笑った。
 ―――殿は目先の勝敗のみに(こだわ)っておいでではない。
 政家が新しき国、と言い、直實が殿の夢は我らの夢、と言ったことは、平氏に一矢報いることのみに熱くなりかけていた将たちを心底(しんそこ)(ふる)い立たせた。
 我らは朝敵とされた。
 ―――朝廷に(そむ)く賊。
 結構ではないか。では言わせていただこう。
 我らの主は国であって、朝廷ではない。我らが義朝と共に目指しているのは、今の朝廷―――民衆の生活の実態を知らぬ君主や、既得権益に固執する摂関家以下の官人貴族が政を執る朝廷―――に依らぬ世を創ることだ。我らが今の朝廷の敵ならば、この国のゆく末を考えぬ今の朝廷を構成する輩は、我が国の敵ではないか。
 もう一度言う。我らの主は国である。我らが戦う相手は文字どおりの国賊である。武士として「君主」に対してではなく、「我が国」に対してなすべきことをなすための戦いに挑もうとしているのだ―――。



   『義平』より

 夕餉を終えた義平に、常磐は塗籠(ぬりごめ)でゆっくり眠るよう勧めた。
「それでは義母上が……」
「わたくしは子供たちの部屋で休みます。義平殿はここ何日もあまりお休みになっていないのですから、さ、早く横におなりなさいませ」
「申し訳ない」
 押し込められるように塗籠へ入った義平は、常磐が妻戸を閉めるや否や、崩れるように眠りについた。
 二刻は眠ったろうか―――。
 目が覚めた義平は、青墓で父と別れて以来感じていた疲れが、すっかり消えているのを感じた。
 常磐の顔を見、湯浴みをして腹も満たし、安心して熟睡したからに違いない、と思い切り手足を伸ばしてあくびをした時、義平は明かり窓から薄く光が射して込んでいるのに気がついた。
 隣の部屋の燈のようである。
(消し忘れか)
 明かり窓の位置が高くて(のぞ)くことが出来ない。が、どうも気になる。塗籠を出て部屋へとまわってみれば、妻戸が少し開いている。内を(うかが)うと、部屋の隅で女性が衝立障子(ついたてしょうじ)に寄りかかっているのが見えた。
 影容(かげかたち)からすると常磐のようであるが、衣が先ほどとは違う。
(菖蒲殿だろうか……)
 その女性はどうやら眠っているらしかった。起こすのも憚られて一度背を向けたが、常磐かもしれぬ、という期待が足を部屋へ踏み入れさせた。
 そっと近づいてみると、それはやはりいとしい(ひと)であった。衣を替えたのは湯浴みをしたからであろう、豊かな黒髪はまだ少し湿り気を帯びているらしい。
 前に置かれた文机には、書が開かれたままになっていた。静かに膝を折って覗き込んでみると、
〈君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る〉
 の歌が見える。
(古今集か……)
 梅の花も恥らう常磐。その常磐の本当のすばらしさを解することにかけては、父に負けていないつもりだ。
 だが、なぜ常磐は眠らずにここにいるのか。
(まさかずっとここにおいでだったのでは……)
 いやそうだ。追っ手を煙にまいたと言われても、やはり心配だったのであろう。屈強の郎党も交代で見張りに立っている。それでも、熟睡する我の近くでこうして見守ってくれていた。異変があればいち早く我に知らせるべく、この寒い部屋でずっとこうしていてくれたのだ―――。
 そうとしか考えられなかった。
 常磐たちがこの館へ移ってから、女手は侍女菖蒲しかいない。乳飲み子も抱えて、どれほど疲れているだろう。少しでも時間があれば眠りたい筈なのだ。今、少女のように無心に目を閉じているその姿に、義平は胸の底から突き上げてくるものを感じ、目の奥が熱くなった。
 義平は常磐のそばへにじり寄った。
 仄かな甘い香が義平を包む。この屋へ裏から忍んだ先刻、いきなり現れた義平に驚いた常磐を抱え起こした時に嗅いだ、あのかぐわしい匂いだ。
「常磐殿、お風邪を召されますぞ」
 着ていた衣を一枚脱いで常磐に着せかけると、思いがけず常磐は衝立障子を離れ、義平に寄りかかって来た。
「殿……」
 常磐の細い声が聞こえた。
(この二十日あまり、どんなに辛い思いをされたことか)
 いけないと思いつつ、義平はそっと常磐の肩を両の腕に抱いた。見るからに華奢な常磐であるが、こうして抱き締めてみると、まるで春の()に溶ける淡雪のように繊細な(ひと)であった。
 常磐にはこれからどのような運命が待ち受けているのか、義平にはわからない。謀反人となったおのれに、この女を助けることなど本当に出来ようか―――。
(父上、なぜ常磐殿を残して逝かれたのだ)
 義平の頰を涙が静かに伝った。



   『天女降臨』より

 長成は一旦目を閉じ、息を整えて笛を構えた。
 静やかに流れはじめた音の、()いだ水面(みなも)を撫でて渡る微風(そよかぜ)のような清らかな響きに、春の宵のかぐわしい
夜気が揺らぐ。
 知らず知らず、常磐は身を乗り出して聴き入っていた。
(何と優しいお方……)
 演奏は人格が鳴る。奏している時の感情は偽ることが出来ても、隠そうとして隠せぬのがその人の性格や生きざまである。
 常磐は、長成という人を聴いていた。と、ある時点から、長成が素直に歌いかけてくるのを感じた。
 戸惑いながらも、常磐はその歌に寄り添ってみた。
 清廉な龍笛(りゅうてき)の音に身を委ねる。聴く、のではない。
 耳に入るのは一本の旋律のみ。だがその単旋律を支える音たちの何と表情豊かなことか。
 それらは、萌葱(もえぎ)白緑(びゃくろく)薄草(うすくさ)と木々の若葉が見せる緑の濃淡のなかに、山桜や山躑躅(つつじ)がこれまた紅色の濃淡をぼかし染める春山の美しさに似ていた。その音色が、義朝、義平の死以来、常磐が心に固く纏ってきた鎧を一片ずつ絡め取る。()ぎ取られた鎧は柔らかな薄衣となって舞い上がり、天上の闇へと消えてゆく―――。
 長成の歌はまだつづいている。拍子を変え、調子を転じ、およそ人間の持つありとあらゆる感情が鮮やかに再現されてゆく。長成の歌は常磐の心を鷲摑みにし、愛撫し、突き放して抱き締めた。
 義朝が、義平が、朝長が、爲義が浮かんだ。六条堀河館、船岡邸、一條庵で過ごした七年間が頭を駆け巡った。どっぷりと源氏の家の思い出に浸る常磐を、長成の歌はなおも追いかけ、柔らかに包み込んだ。
(この方にはすべてを投げ出せるかもしれぬ)
 常磐は思った。見るともなく目にしていた、生絹の帷子に描かれた菖蒲(しょうぶ)が、じわり、と(にじ)むのを心地よく感じながら―――。
 長成は笛を膝のうえに戻した。ひと呼吸、ふた呼吸置いても、几帳の向こうからは何の声も聞こえない。
(お気に召さなんだか)
 だが常磐ほどの教養があれば、お世辞でも奏者にひと言ある筈である。
 奏している間、気づけば脳裏に常磐の面影が浮かんでいた。それを追って、気持ちの(たかぶ)るに任せて吹きつづけた。
(嫌気されたかもしれぬ)
 長成は常磐の筝を聴いたことがないが、聴いた者は皆一様に、別世界へ連れていってくれるようだ、と顔をとろけさせて誉めちぎっていたのを覚えている。それほどの演奏が出来る者なら、音のうしろにある奏者の本心を見抜くのは容易いことだ。
 沈黙に耐え兼ねて長成が声を発しようとした時、影がすっと立ち上がった。影は少し奥へ進み、(うちき)の裾を引きまわしてこちらに振り向き、腰を下ろした。
 影の上体がわずかに手前に傾いた。と、鳴り出したのは筝であった。
(おお……)
 紡ぎ出された音は、そのひとつひとつが水晶のような透明感を持っていた。それらが黄金(こがね)白銀(しろがね)(くれない)紫紺(しこん)と、常磐の心の動きにつれてさまざまな色彩を帯び、(くう)に漂う。音の(たま)は連なり重なり、あるいは散って、静寂(しじま)を彩る。
 変幻自在に操られる筝の音に、長成は酔い()れた。
(……いや、逆かもしれぬ)
 聴き進むうちに、静寂を―――音の珠があることによって浮かび上がる、しっとりと懐かしい静寂を聴かされているようにも感じられて来た。それほどまでに、この空間のすべてが一体となっているのだ、と長成は震えた。
 常磐に長成の歌が聞こえたように、長成には常磐の語りが聞こえた。
 悲しみ苦しみ、不安、そして戸惑い。若々しく勝気さが覗いて見える演奏の下に、今あるがままの常磐が横たわっていた。まるで聞き手の度量を試すかのように、常磐は生々しくおのれをさらけ出したのだ。
 胸を締めつけられ、長成は衿元を摑んだ。
(はじめて会うた我に……)
 演奏が華やかであるからこそ、おのれを隠そうとしない素直さが切ないほど可憐であった。
(常磐殿は我に身を預けようとしているのではないか)
 すでに長成に迷いはなかった。というより、実は常磐が一音を爪弾いた瞬間に、おのが魂がおのが意志を離れて常磐を優しく抱き止めたことを、彼は知っていた。
 ふいにこみ上げて来た熱いものが、頰を伝い落ちた。
(もしも、まことに常磐殿が我を恃みとされるのならば)
 そうであるならば、常磐を託す男として、天の意志が淸盛をしてこの長成を選び給うたに違いない―――。



小説・源義朝・源義平・平清盛「黎明の坂(一)」増田祐美
神戸新聞総合出版センター
ISBN978-4-343-00732-2 1,700円+税
B6版ソフトカバー・436頁
神戸新聞総合出版センター
「黎明の坂(一)」 ISBN978-4-343-00732-2 1,700円+税
「黎明の坂(二)」 ISBN978-4-343-00763-6 1,800円+税
「黎明の坂(三)」 ISBN978-4-343-00814-5 1,700円+税

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